てけノート

on the foot of giants

建築と人間の間

   


今回は、普段感じる文化の違いを、ちょっと専門的な話も絡めてお送りしたいと思います。というのも最近えらく考える力が落ちていて、文章を書く事で紛らわせたいっていう動機があります 。
さて、今回のテーマは建築および都市計画に関わるものですが、自分はそっちの専門ではないし、新書レベルを数冊読んだ程度の知識なのでいい加減な事を言うかもしれませんが、ご容赦ください。

自転車の車道走行

話の始まりは自転車です。日本でも今年から自転車の車道走行が義務づけられましたが、いきなり車道に放り出されても自転車が安全に走れる状況が整っていないというのが現状と思います。自分はよく「ヨーロッパでは自転車専用レーンがあるからそういう義務行使が出来るのに、車道と路側帯しかない日本で無理な決定をするものだ」と思っていました。

そんな簡単な話ではない

良く終電を逃してから深夜のパリを自転車で長距離駆けているので、パリ全域を走った感想として。
もちろん大通り含むほぼ全ての場所で自転車専用レーンは整備されていますが、パリの道路は5叉路など複雑な交差点が随所に現れます。そういったところでは自転車用のレーンは途切れますし、ランドアバウト(交差点に信号を設けず、円形の道路を走行して目的の道路に向かうもの)に至っては自転車で目的地に安全に向かうのはかなり難しいです。パリの人間の運転はいい加減で荒く、自転車にバックミラーがぶつかるかと思うくらい接近されるのも多々。しょっちゅう接触した ・してないで揉めてるのを目撃します。

アフォーダンスとは

この話をアフォーダンスの観点から語るのが今回の記事の目的です。アフォーダンスとは、固い言い方をすれば『外部要因によって規定される、主体が行為の創出できる可行動範囲』といった感じでしょうか。例えば、紙を切りたいという状況で、ハサミが近くにあればハサミで切ろうとすることでしょう。しかし、何も道具がなければ、紙に折り目をつけて手で引っ張って切る・手でそのまま破る・下敷きを使って切るなどの行動が現れます。このように、外部要因によって規定されるものがアフォーダンスとなります。一般に技術の向上とアフォーダンスの延長には相関があります。
なお他の例としては、自分の専門領域であるロボティクスの知能などにおいては、テーブルと椅子をどう定義するか、という話で現れる概念です。言葉で定義しようにも、足があって、その上に平面がある点においては同一ですし、その用途は身体の大きさによって変わります。例えば幼児向けのテーブルは成人にとっては椅子や踏み台となりうるし、成人向けの椅子が幼児にとってはテーブルとして使う状況もありえる。従って主体の身体と環境が相互に働きあって物の用途を規定するため、一概にどれがテーブルでどれが椅子であるとはロボットに知識として与える事はできない、という話になります。よってロボットに知能を与えるにはその身体なしには人間世界を正しく把握することはできないだろう、つまりはアフォーダンスによって知能が規定される、という主張です。この点については東大の國吉教授や阪大の浅田教授らが身体性認知科学と銘打って研究をされています。

建築だと

さて、このアフォーダンス、建築の話にも適用できるのでは、という話です。「住宅とは住む機械である」とは有名な言ですが、例えば日本の襖では完全に隣室の会話が筒抜けになってしまうことから日本人の周りに配慮する気質が生まれたが、欧米諸国のパーティションで区切られた部屋は音が聞こえない(にくい)ので個人主義が発達した、みたいな主張もあります。他にもヴェネツィアのサンマルコ寺院において、通常の教会に1つしか存在しないオルガンと合唱隊席がそれぞれ2つ用意されたために、それにより生まれるステレオ効果を利用する楽曲が多く作られた、などの話もあります。このように、建築という外部要因によって我々の行動が規定される例は数多く見られます。

危機回避という文化がソフトとしてハードを支えている

そこで今回の自転車のレーンの話に戻りますが、いかに建築によって我々の自転車がレーンに誘導されようとも、パリの人間の運転が危ないので、正直なところ安全にのんびり走行できるとは極めて言いがたい。ではなぜそれでも自転車のシステムが正しく機能しているのか?その差を埋めるのがまさに「パリの人間の運転の危なさ」であると言えるのではないかと。
運転が危なっかしいので、町中ではしょっちゅうヒヤリとさせられますが、このしょっちゅうヒヤリということはつまり、危ないところでブレーキを踏むことに慣れているということになります。自転車のレーンがない、工事中のために自転車が車道の真ん中に飛び出している、そういった状況においても普段からブレーキを踏み慣れている運転手からすれば、危機回避は日常なので致命傷にはならない(パリでは自転車の運転マナーもひどいので、お互いが高い危機回避能力を持っていると感じます)。
 一方で日本で同じことができるか、といえば答えはノーではないでしょうか。一般に日本人はお互いがルールを守る前提で行動する傾向が強いので、自転車専用レーンからの飛び出しは滅多に起きない予想外の事態となり、多くの場合急ブレーキなどで対応がなされるのではないか、と思うわけです。

ちょっと長く書きすぎました

結論としては、建築と人間の間を埋めるのは、まさにその文化や国民性によるものであり、一概にハードを作ってアフォーダンスとして規定すれば万歳とはならないなあと感じた次第です。ハードの側もその人間および目に見えない文化に合わせて、アフォーダンスにより誘発される行動を予想して作られなければならない。海外にあるシステムをそのまま輸入しても上手くいかないっていうのはこういう風に見ると肌で実感できるなあというお話でした。

 - パリ